できるだけ自由の利く知識、知見を得たいと日々思っているsumireです。
ちょっとだけ頭の中にあることを書きます。
日常生活において私たちはこれらを様々な媒体を通した情報として触れています。
分野にとらわれない、いい感じのこれらと出会う確率は
[確率という言葉を使用することは不適当ですね笑。確率につきましては、本田成親『確率)の悪魔-科学理論と現実のはざま』が読み物としてはおすすめです。この本を紹介したいからといってわざと誤用したわけじゃないですよ、、、]
情報をどれだけ適当に評価するかにかかっているんじゃないと私は思うわけです。なぜかって、評価する以前の問題として私たちが触れられる情報は個人が所属する社会的、物理的または、インターネット上の仮想的なcommunityに左右されるから、情報が絶対的に正しいことはあり得ないからです。
上記の理由から場当たり的な判断をせざる得ない、それを積み重ねていかなければならないんです。
もちろん、得る情報の質を自分で選択し改善することはできます。必要だと私は思っています。
情報ぐらい選択できるぞいと、ニュースアプリも自分でカスタマイズ、目星しいサイトにはブックマーク、新聞も各社の報道特性を理解しながら何社か読んじゃう、学術的な本も信頼できる研究チームのものをよんじゃるよと、でもどんなに徹底しても完全に自分で選択できない、それと同時に選択すること自体がよくないってことが必ず生じるところが悲しいところですね。
情報を適切に評価するには何と言ってもそれぞれの保有する知識量がもっとも重要となるんじゃないいでしょうか、広い範囲の情報を全て偏りなく評価できるセンスもあるわけですが、そんなものよりもまずは知識量です。適当な評価を妨げる原因のほとんどは知識量の少なさからくる評価の偏りだと思うんです。本当に、、
(全く知識を持ち合わせていない人が情報を適当に評価できることはまずありません。方向性があってたとしてもそれは単なる運ですね。そう、どんな時代の寵児たちも、、 いっぱいいますね、どの時代もそれぞれに差はあれど、まぁ全てうまくいけばいいんです。)
それなら、知識量さえ増やせば万事解決、新しい理路整然とした世界が私たちを待っている、、、、とは残念ながらいきません。(増やせたとしても混沌とした世界のままですが)自分で書いておいてなんですがその知識を得るためには情報を適当に評価しなくてはならないんです。堂々巡りです。だからこそ、人によって評価能力に大きな差ができるわけです。
認知の仕組み
対応策としてはPDCAサイクル(これ自体は会社の事業、プロジェクトの評価の語句。認知系の同様の語句を私は知らないので、、、)のように手順を踏んで客観的に知識量と評価能力を評価していくなど客観性を取り入れる。あとは知識を得る時間を増やすことぐらいですね。私が今パッと思いつくのは、、
と思っていたことだらだらと、、これぐらいで突然に終わります。
知識とか思想とかって正解がないから悩むわけで、それゆえ余計に正しさを求めてしまいます。欲求ですね。それって学術的なものから日常の些細なものごとに現実の重要性の差はあれど存在しています。人と話し合うことで考えを深めることができたり、周囲の人と話し合うことができない場合もあったり、本とか読んでみたり、
色々四苦八苦してみますけどだいたい思った結論は出ません。出たとしても一時的なものです。
でも、そんな一時的な結論でいいと思っています。そういう対象ですから。それさえ分かれば砂つぶや、米つぶ程度の安心感が得られます。
それで私には十分です、とだいたいの方向性さえあればそれを絶えず続けていくことが大事だと思う今日でした。